この記事まとめ
・研究によると、人は善行の動機として決断に迷いがあったり、自分に利益があったり、良く思われたい、などを感じとると偽善者だと思いやすい。これらの対処方法を知る事が重要。
他人のためにする善行をする人は、良い人で寛大だと思われます。
ですが、善意による行動でも時に思いもよらぬ批判をされたり、偽善者だと心無い事を言われることもあります。なぜ善意の行動でも偽善者だと言われてしまう事があるでしょうか?
もし偽善と判断する人の心理やメカニズムを理解すれば、偽善だと思われない善行の作法がわかります。科学的根拠を元に一緒に学んでみましょう。
人は動機が純粋に見えるかで偽善を判断している!という研究
人間は社会的生物ですから、利他的で寛大な行動を取る人は群れに貢献するので歓迎されます。
ですが善行を叩くという「偽善者」という批判はこの判断基準と矛盾しています。このことについて研究者はどう説明しているのでしょうか?
善行をしても偽善者として見られやすいのはどういう人?
今回紹介するのは2022年Current opinion in psychologyに掲載されたBermanらの論文で、「善人と見られるのはどういう時?」といったようなタイトルになります。詳細は以下の通り。
- 善行と信用は直接的な関係があるわけではない。なにを行ったかではなく根底の動機を見られている!
- 例えば、犠牲をいとわないか、迷いがなく即断即決か、よく思われたいと思われていないかなどで動機を判断されている。
- ただし、自己満足で行っているだけだというシグナルは偽善だと思われなかった!1)
つまり、「自分がよく思われたい」という下心があると判断されただけで、それは偽善だと判断されてしまうわけです。特にキツいのは最初から「こいつはよく思われたい点数稼ぎだ」というキャラだと思われてしまっている場合ですね。自分に善意しかなかったとしてもキャラの決めつけだけで偽善だと思われてしまうわけです。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」なんていいますが、まさにこの言葉は本質をついていると言えましょう。他人を批判する人に限って自分は何もしなかったりするので本当に失礼な話ですが、事実は事実として理解しておくことが重要です。
善行≠信用、良いことをしても批判される事もある
つまり、人間というものは純粋な動機からの人助けやボランティアだとしても、「コイツ、点数稼ぎじゃね?」と常に疑い、偽善のサインを感じとろうとしています。ポイントはこの「感じ取っている」かどうかであって、本当に点数稼ぎかどうかは関係ありません。
つまり、善行をする時にちゃんと対策法を理解していないと、「あいつばっかり良いやつと思われようとしやがって!ずるい!」みたいなわけのわからない感情により偽善者として叩かれることになります。痛くもない腹を探られないために、後述の対策方法を理解しておきましょう。
偽善者だと思われないための対処方法
では、これらの根拠を元に善行をしても偽善者だと批判されないための対処法について考察していきましょう。
利益があると思わせない、むしろ損失があると思わせる
先ほども申しましたように、自分の利益になる動機が見えた時に偽善者として判断される事になります。その真逆をすればいいわけで、自分に利益がない、むしろ損をしてでも助けるという行動は「私は自分に得が無くても人を助けたいのだ!」という動機の根拠になります。
ですから、善行をするときにそんな下心がなかったとしても「自分は利益があると思われる余地はないか?」という事について考慮した方がいいでしょう。
さらに、見返りがあって助けたと判断された場合、助けなかった時より道徳的ではないと思われる1)ようですので、この点は要注意です。自分に見返りがある時の対策方法は後述しております。
助ける時は即レス、迷いを見せない
誰かを助ける時には迷わないでください。即答即決をしましょう。理由は実際にされるとすぐにわかります。
「ちょっと力貸して欲しいんだよね。これやってもらえないかな?」
「‥うーん‥まあいいけど」
これだとイヤイヤ感がありますし、「断るなら断れよ」思いますよね。何だったらもったいぶって恩着せがましい感じすらあります。
これだとせっかく頼み事を引き受けたのに、「自分がこれを断ると感じが悪いから、まあ仕方ないから引き受けておこう」という後向きで、かつ打算的な動機として感じとられてしまうのです。その結果、善行をしたにも関わらず偽善者という失礼なレッテルをつけられてしまいます。
では、返答を即答にして前のめりにするとどうでしょう?
「ちょっと力貸して欲しいんだよね。これやってもらえないかな?」
「もちろん!役に立てて嬉しいよ!」
ここまで言えれば100点でしょう。この即答で前のめりの姿勢というのは「この状況で自分が他者を助けるという行為は当然である」という強い根拠になります。
いいことをするだけなのにそこまで考える必要があるのか?と思うかもしれませんが、どうせ引き受けるのなら優しく寛大で余裕のある人だと思われた方が良いのではないでしょうか。
ストリートスマートの記事で書きましたが、私もホテルマンからこのような即レスかつ前のめりの対応をされた事があり、今でもよく覚えています。ホスピタリティ提供のプロフェッショナルは心理学を理解しているかはわかりませんが、経験則として即レスの重要さを熟知していると言えるでしょう。
補足として、ペンシルベニア大学アダムグラント博士の「GIVE&TAKE」では、人をギバー(与える人)・テイカー(貰うとする人)・マッチャー(バランスを取る人)の3つに分類しています。2)
自分の損得を考えて行動する人は打算的ですからテイカーか、良くてもマッチャー的な人であり、即レスで助ける人はギバー(与える人)の可能性が高いと考えられるでしょう。テイカー的に思われると警戒され、偽善だと受け取られやすいのは無理もありません。
自分から善行をしたと言わない
「オレ、あいつのこと助けてやったんだよね〜」
これを聞いてどう思いますか?いい人だな、寛大だなと思いますか?思いませんよね。
こういった善行の自己アピールは自分がよく思われたいという動機の塊ですから避けるべきです。これをした瞬間、もし善意からの行動だとしても「独りよがりなヤツ」と思われて終わりです。
真逆のパターンとしては、江頭2:50さんが地震の時に単独で福島に支援を行ったことが好例になります。江頭さんは自ら借金をしてまで救援物資を運び、かつそれを言わなかったというのはまさに称賛されるべき条件が揃っています。
私たちはこのような行為の動機を見て江頭さんが「あの人、すっげえいい人」と自信を持って判断しているわけです。江頭さんは営業妨害だと言うかもしれませんが、彼の行動にイメージアップのような打算など見て取れず、むしろ隠そうとしてますから「この人は本当に人を助けたいだけなんだ!」と好感度が上がってしまうのは当然と言えるでしょう。
自分にがやりたいからやる、利益があるからやると自分で言う「ベジータ系善行」はOK
「善行はそもそも自己満足。やったら自分がちょっといい気分になるからやるんだ」
この発言は見方によってはずいぶん独りよがりにも見えますよね。しかし、そういった善行の自己満足シグナルだけは偽善的だと思われにくいようです。
これは動機がはっきりしているからであり、さらに純粋に人を助けたいという動機に帰結するからでしょう。
たとえば、ドラゴンボールにはベジータというツンデレキャラがいます。ベジータはツンデレですので馴れ合いはしませんし、輪を乱したりもします。彼は悟空を超える事を目標にして目の敵にしているのです。
しかし、新たな強敵が現れて悟空(カカロット)がピンチになるとベジータは颯爽と悟空の元に駆けつけて助けてくれます。そしてベジータは言うのです。
「カカロットを倒すのはこのオレの役だ‥てめえらガラクタ人形の出る幕じゃねえ」
DRAGON BALL カラー版 人造人間・セル編 2 (ジャンプコミックスDIGITAL)
ベジータはあくまで自分の利益のためだと言っていますし、その言葉がウソというわけではないでしょう。これは自分の純粋な動機ですし、おまけに悟空を心配して助けに来てくれた気持ちがある事も明白ですからどう見てもツンデレです。
このような動機の正直さは誠実さとも言い換えられ、偽善者とは対極の位置になります。
このような自分がやりたいからこうするのだ、という動機は偽善だと思われません。もし助けることにメリットがあるとすれば、「金のためだ、勘違いするな」と自分から言った方がいいでしょう。
偽っている善だから偽善になるのであって、「オレは自分の利益にもなるし、なんとなくいい気分になるからやるだけだ。勘違いするな」と正直に言えばいいのです。これであなたも立派なツンデレの仲間入りです。
皆さんも善行をするときはベジータになりましょう。
勘違いするなよ、カカロット‥
どうしても偽善と捉えられてしまう状況もある
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは真理という話をしましたが、つまりイメージが先行するとどうあがいても偽善者と思われてしまう状況もあります。
不祥事後の芸能人
わかりやすいもので言えば不祥事後の芸能人のボランティア活動などがあります。ボランティアというのは無償で誰かを助ける事ですから、間違いなく善ですよね。
しかし、悪いイメージが先行している状態で、かつ不祥事後のイメージアップと取られかねませんからどうしても「お前、下心あるんじゃね?」と捉えられがちです。
1番迷惑なパターンとしては、本当に真摯に受け止め人々の助けになればと思い内密に行っていたのに勝手に報道されたりすると、「こいつ、点数稼ぎじゃね?」と痛くもない腹を探られる事になります。つらいですね。
迷惑系Youtuberの善行
さらに、普段の素行が悪い人だと善行をしたとしても「また再生数稼ぎか!」「この人が善意で行動するわけない!何か裏がある」とこれまたレッテル貼りのような考えに結びついてしまいます。
確かに再生数稼ぎだったり裏があるかもしれませんが、そうではないかもしれません。その行為で助かる人がいるならそれは善のうちです。善のふりして迷惑をかけてるなら論外ですが。
私たちはこのようにな思考のクセがあることを認識して、「この人が偽善かどうかはわからない、でもまあそれはそれとして、助かる人がいるならいいよね」といった考えを持つ余裕があると良いでしょう。
偽善という批判が善行やボランティアを抑制する
偽善者と叩くことによる1番の問題点は、善行を偽善だと言って叩く事により、善行やボランティアをしようとする人が二の足を踏むようになってしまう事です。偽善者だというのはもしかすると真実があるかもしれませんが、その行為自体で助かる人がいる限り安易に叩くと助け合いの輪が途絶えてしまうかもしれません。
善行をする人のほとんどはヒーローになりたいとは思っていません。ですから善行そのものに対する批判は少し立ち止まって考えてみましょう。
まとめ:行動から動機を推しはかられていると意識する
以上の事から、偽善≒下心があるように見えると言い換えられるかもしれません。
ですから、行動する時に動機を見られているんだ!と言う事を意識して行動しておきましょう。つまり、善意による行動だとしても下心を隠していると誤解されるような余地を無くして行動しましょうという事です。
そうすれば自分勝手な動機があるように見えませんから、偽善者と呼ばれる可能性は低くなり、あなたの行動は善意によるものだ・正直で誠実な人だと思われやすくなるでしょう。ただし、善行をする時は押しつけがましく相手が迷惑に感じてないかは気にしましょう。ありがた迷惑なんて言葉もありますからね。
引用・参考文献
1)Berman, Jonathan Z., and Ike Silver. “Prosocial behavior and reputation: When does doing good lead to looking good?.” Current opinion in psychology 43 (2022): 102-107.
2)Grant, Adam, 楠木建. GIVE&TAKE : 「与える人」こそ成功する時代. 東京, 三笠書房, 2014